「喜びの扉を開く鍵」


「喜びの扉を開く鍵」


 如来様の智慧の事を「大円鏡智(だいえんきょうち)」と言います。その智慧はまるで大きな丸い鏡のようなものだということでありますが、大変味わい深い言葉だと私は思います。

 鏡というものは私の姿を写し出す道具です。そして鏡を見ることによって私の気づかないところ、例えば服装が乱れていたり、或は顔に墨がついていても、それを知ることができます。

 実は、お念仏のみ教えを聞かせて頂くということは、この如来さまの智慧の鏡に私の心の姿を写し出すという事にほかならないのです。

 如来さまの智慧の鏡に写し出された私の姿とは一体どんな姿なのでしょうか?

 私はよく次のような例え話をいたします。

 ある奥様が台所で洗い物をしていて、何かの拍子にコップを落として割ってしまったとしましょう。

 コップを落とした瞬間「あっ、しまった」とまず思います。ところがその後です。割れたコップを見てどう思うかというと「割れやすいコップだなー」と思ってしまうのです。

もちろん、その後は、誰にも気づかれないようにそそくさと片付けてしまいます。

 ところが、同じ事を子供さんやご主人がした時はどうでしょうか?「何をとろくさい事をしてるの。もっと注意してよ!」と怒鳴ってしまうのです。その時「あらー、割れやすいコップだこと」などとは決して言いません。

 たかだが、コップ一つ割っただけでも、このように自分と他人がした時では、その心の動きは天と地ほど違っているのですが、お気付きでしょうか?

 どのように違っているのかと言いますと、自分が失敗した時は「割れやすいな−」というコップのせいにしているのです。ところが、他人が失敗をした時は「とろくさい」だとか「もっと注意をしなさい、きょろきょろして」などと失敗した行為そのものを非難してしまうのです。

 このような心を仏教では「偏計所執処(へんげしょしゅうしょ)」と言います。「私たちは生れながらにして間違った物差しか持ち合わせていない、それも自分の都合の良い様にしか計らない」というのです。

 この「偏計所執処」といわれる心の底にあるものは何かといえば、それは我執だと、お釈迦さまは言われるのです。     

 我執とは「自分が一番可愛い」という心です。しかも、この心はΓ臨終の一念に至るまで止まらず、消えず」と親鸞聖人がお示し下さったように、死ぬまでなくならないのです。

 さらに、この我執は「自分が一番正しい」という慢心の心を生みます。

 「私は間違っていない。間違っているのは相手だ」という思い上がりの心です。

 このように如来さまの智慧の鏡に写し出されることによって初めて、自分の姿というものに気づいていくことができるのです。

 これは、言い換えますと「至らぬわが身だなぁ、お粗末な我が身だなぁ」ということに気付かせて頂くということであります。そして、実はこのことが人生を歩んでいくのに大変大事なことなのです。

 私たちの人生には思い通りにならないことがしばしば起こります。

 そんな時、私たちは「なぜこんなことになってしまったんだろう。私は間違っていないのに、誰のせいでこんなことになってしまったんだろう」と思い通りにならないことに腹を立て愚痴をこぼします。そして「こうなったのは、あれが悪いから、これが悪いから」と他に責任を転嫁してしまうのです。

 これでは決して問題が解決しません。もし仮に解決したとしましても、それはどこかに無理を押しつけているか、誰かが辛抱しているのです。

 そんな時、その原因を外に求めるのではなく 「このようなことになってしまったのは、私が至らないばかりに」と我が身にその目を向けることができれば、必ずや問題は解決していきます。

 この「私が至らないばかりに……」という心が、己を成長せしめる最も重要な鍵であります。そして、その鍵だけが慶びの扉を開くことができるのです。

 親鸞聖人は「正信念仏渇」の中で「仏言広大勝解者」とお示し下さっています。

「如来さまは、お念仏に生きる者は何と見事に人生の問題を解決するものだと、ほめたたえて下さる」と、おっしゃています。

 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏      合掌


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