今月の法話

「私一人が苦労?」



「私一人が苦労?」


 『私一人が苦労?』

 もうかれこれ10年程前でしょうか、こんなことがありました。

 あるご門徒のお家のおばあさんがお寺へやって来て、こう言うのです。

「住職さん大変なんです。家の嫁が古いお墓を整理して先祖代々のお墓に建て替えると言うんです。おまけに墓地にコンクリートをすると言うんです。

 嫁が言うには、古いお墓がたくさんあったら世話が大変じゃ。それにコンクリートをしたら草も生えんようになって、後の管理がしゃすなる。どうせ私らが世話せないかんのじゃから、管理しやすいようにさせてもらわな・・とこう言うんです。

 それで私は言うたんです。今のお墓で上等じゃ。それにコンクリートなんかしたらお墓に眠っとるご先祖が息苦しゅうて可哀想じゃと、皆言よる。

 どうぞ、お墓だけはつつかんといてくれ。今のままにしといてくれと言うたんです。

 ところが嫁はどうしてもお墓をやり変えるというて聞かんのです。住職さん何とか、家の嫁に、お墓を建てかえんように言うてくれませんか」と、言うのです。

 私は「そうですが。そりゃー、おばあさん大変ですね。おばあさんのご心配も、よくわかります。ですけどね、いずれこの先お嫁さんに世話にならないかんのですから、ここはお嫁さんの言うことを聞いてあげたほうが丸く収まると思うんですけどね。

 それに、墓地にコンクリートをしたからといって、ご先祖が息苦しくなったりはしませんから。
 まあ、お嫁さんには、お墓の世話をきちんとしてくれるように言うておきますから。どうですか、お嫁さんの言うようにしてあげたら」と、話したのです。

 すると、おばあさんは、納得しかねるといった様子で「そうですが。そんなものですか」と言いながら、今度は自分の苦労話を始めたのです。

 それはいつまで続くのかなと思う位、長い苦労話でした。そして、おばあさんは最後にしみじみと言うんです「私一人が辛抱しとるんです」

 これを聞いて、私は「可哀想なおばあさんだなあ」と、思いました。

 ところが、それからしばらくして、今度はその家のお嫁さんがお寺に来たんです。

 「住職さん聞いて下さい。大変なんです。実は今度、家のお墓を建て替えようと思て、おばあちゃんに言うたんです。そしたら、そんなことはさせん言うて、どうしても反対するんです。

 私は、何とかきれいなお墓にしてあげようと思うとるのに…本当に家のおばあちゃんは、一回言い出したら聞かんのです。住職さん、何とかおばあちゃんに言うて下さい」と、このように話されるのです。

 奥さんの話を聞いていると、どうも先日のおばあさんの言ってることと、かなり違うのです。

 そこで私は「そうですが。良いことをしてあげようとして文句言われたのでは、かないませんねえ。まあ、奥さんにもいろいろ言い分はおありでしょうが、おばあさんが長年守ってきたお墓ですから、ここは一つお年寄りの言い分を聞いてあげたらどうですか。

 おばあさんもいつまでも生きられるわけじゃないですし、奥さんの方が辛抱してあげれば丸く収まると思いますよ」と、話したのです。

 すると、奥さんは、また言うのです。「そりゃー、住職さん、そんなに簡単に辛抱しなさいと言われますが、家のおばあちゃんは私らの苦労をまったく分かってくれないんです。

 今の若い者は辛抱が足らん、苦労が足らん、と言うて何をしても文句ばっかし言うんです。そのくせ自分は、今日は老人クラブの会じゃ、今日はゲートボールじゃと、毎日のように家を空けて…。本当に私一人が苦労しとるんです」と言うのです。

 これを聞いて、私は「なんとまあ、この家には私一人が辛抱したり、私一人が苦労したりする人が二人もおるのかな」と、思ったことでした。

 おそらく、こんな二人の間に入った主人も「私が一番苦労してます」と言うのではないだろうかと思えてきたのでした。

 ところで、お念仏を喜んだ源左さんというお方は「こそ、という言葉をいつも相手につけましょう」と、よく言われたそうです。

 それはどういうことかと言いますと、私たちにはそれぞれの立場があります。

 それが、例えばおばあさんの立場であれば「こうしてわが家がうまくいくのは、家の嫁が一所懸命切り盛りしてくれたればこそ…」と、嫁にこそをつけて感謝をする。

 また、それがお嫁さんの立場であれば「こうしてこの家がうまくいくのは、家のおばあちゃんが色々と気づかってくれればこそ…」と、おばあさんにこそをつけて感謝する。

 このように、いつも相手に「こそ」をつけて感謝していきましょう、ということなのです。

 もちろんこれが実行できたら、争いごとなどは起こりようもありませんが、実際にはなかなかそうはいきません。

 先程の二人のように「こうして何とかわが家がやっていけるのは、私の苦労があればこそ、私が辛抱していればこそ…」と、どうしても自分の方に「こそ」をつけてしまうのです。

 「こそ」を相手につければ丸く収まるのに、それを自分につけてしまう。これを「こそ泥」だと言った人がいます。どうも、私たちお互いはこのように、大変愚かな日暮らしを続けているようであります

 そんな愚かな私だからこそ、み教えを聞いていかねばならないのだと思うのです。お念仏のみ教えは、わが身の至らなさを厳しくみつめていくものです。そしてそれと同時に私の本当のよりどころとなるものを教えて下さるものなのです。

 「つまらんことに意地を張っていたなあ。もう少し相手の立場に立たないかんなあ一」と、わが身の至らなさに気付かせて頂き、「そんなお粗末な私だからこそ、み仏は捨ててはおけぬと深い願いをかけて下さったのだなあ一」と、感、謝をしていく。

 それが智慧の念仏、信心の智慧と言われるお念仏のみ教えなのです。

              南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏...合掌


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