今月の法話

「中村久子さんの一生」



 「中村久子さんの生涯─心の手足」



 数年前、「知ってるつもりというテレビ番組でも取り上げられ、大変大きな反響を呼んだ中村久子さんという方を、ご紹介したいと思います。

 彼女は明治30年・飛騨高山市に釜鳴栄太郎、あやの長女として、この世に生を受けました。

 3歳の時に霜焼けがもとで「突発性脱疽(だっそ)」という病気にかかり、両手両足を失うというまことに痛ましいできごとに見舞われます。

 7歳の時、それまで人一倍可愛がってくれていた父が亡くなり、母は久子さんを連れて再婚するのです。

 当時の社会は、まだまだ身障者に対する理解は薄く、手足のない彼女を見る世間の目はまことに冷たいものがありました。このような子供が生まれたのは、何か祟りか、罰が当たったのだと信じられていたのです。当然母の再婚先でも、彼女は決して温かく迎えてはもらえず、いつも二階の小さな部屋で身を隠すような日々を送っていたそうです。

 彼女の母はそんな我が子を、何としても一人で生きていける子こしてやらねばと、彼女に厳しいしつけをするようになりました。

 その母の厳しいしつけによって、彼女は食事、トイレ、風呂、といった身の回りのことはもちろんのこと、裁縫編み物、炊事、洗濯、さえも出来るようになるのです。

 幼い彼女が、よくぞここまで頑張り通したものだと、ただただ頭の下がる思いがいたします。
 月日は流れ、20歳になった久子さんは、小父さんの勧めもあって見せ物小屋で働くことになりました。

 見せ物興行に身を置いた彼女は「だるま娘」という看板芸人として、裁縫や編み物そして口で筆をくわえて字を書くといった芸を演じ、忽ち人気者になっていきました。

 こうして・自らの力で自活の道を見つけ出すことが出来た久子さんでしたが、彼女の心は生きる喜びや、希望が全く見いだせない、そんな暗い日々が続いていたのです。

 何とか生きる喜びを見いだそうと、色々な宗教家の話を聞いてはみるのですが、どの教えも決して彼女の心を満たしてくれるものではなかったのです。

 立派な肩書きを持った宗教家でさえ、答は同じでした。

「それは前世の業じゃ、あきらめなさい、辛抱しなさい」と言われるばかりでした。

「あきらめなさい」と言われ、「はいそうですか」とあきらめ切れるのであれば、どんなに楽なことでしょう。しかし、私たち人間の心はそんな単純に割り切れるものではありません。あきらめたくても、あきらめ切れない。そこに、深い悲しみと苦しみが生まれるのです。

 こうして心の晴れない日々を送っていた久子さんに、一大転機が訪れるのです。

 それは、ある婦人会の会合に招かれた時のことです。隣に座られた方のその口から「ナンマンダブ、ナンマンダブ」と、静かにお念仏が出てくるのです。

「お念仏なさいませ。一切は阿弥陀さまにお任せすることです。どんな時も、阿弥陀さまは、私たち衆生を抱きかかえて下さるのです。お念仏させて頂きましよう」と、にこやかに笑みをたたえながら、その方は彼女にお念仏を勧めて下さったのです。

 その時のことを久子さんは次のように書き記しています。

「そのお言葉はまさに干天(かんてん)に慈雨でした。長い間土の中にうずめられていた一粒の小さい種子がようやく地上にそっと出始めた思いがしました。そして幼い日に抱かれながら聞いた祖母の念仏の声が心の底にはっきりと聞こえたのです。そうだ、お念仏をさせて頂きましょう。そして、阿弥陀さまにすべてお任せ申し上げよう。ようやく真実の道が細いながら見いだせた思いがいたしました」

 彼女の深い感動が伝わる思いがいたします。

 このことをきっかけに彼女は、当時名だたる念仏者といわれた金子大栄、花山信勝、足利義山といった方々に教えを請い、次第次第にお念仏の道を深めていかれました。

 振り返ればそれは、長い長い試練の道のりでした。

 人の世の悲しみをいやというほど味わい、自らの境涯を恨み続けてきた彼女でしたが、今初めて、手足のないこの過酷な人生こそが、お念仏のみ教えに出会うための尊いご縁であったのだと、心の底からうなずくことができたのです。

 そんな彼女の生き方は世の人々の感動を呼び、各方面から講演を依頼されることが多くなってきました。

 そして47歳の時、見せ物芸人の生活に別れを告げ、以後、72歳で亡くなるまで、婦人会、母の会、学校、刑務所、お寺など、請われるままに全国各地で講演活動を続け、多くの人々の心に喜びと感動の火を灯していかれたのです。

 お念仏のみ教えに出会えた彼女は、その生きる喜びを多くの歌に残しています。

 その一つに次のような歌があります。

「さきの世にいかなる罪を犯せしや拝む手のなき我は悲しき」

 お念仏のみ教えにあって今初めて知らされる己の業の深さ。そんな深い業の持ち主であったればこそ、今、私は、み仏のお慈悲に会わせて頂くことができました。もし、私にわがままが許されるのなら、拝む手が欲しいのです。救われていく喜びを表す手が欲しいのです、せめて両手を合わせてお礼を述べたいのです、という歌です。

 また、次のような歌もあります。

「手はなくも足はなくともみ仏の慈悲にくるまる身は安きかな」

 手足のない人生。他人が見ればこれほど過酷な人生はないと思うかもしれません。しかし今の私は、阿弥陀さまの温かい懐に抱かれて、この上もない安らかな人生が恵まれているのです。という歌です。

 そして彼女は自らの人生を振り返り、「良き師、良き友に導かれ、かけがえのない人生を送らせて頂きました。今思えば、私にとって一番の良き師、良き友は両手、両足のないこの体でした」と語っておられます。

       南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏    合掌


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