今月の法話

「松山鏡」



「松山鏡」


 古典落語にr松山鏡』という中々味わい深いお話があります。

 昔、越後に松山村という、鏡というものを全く知らない村があったそうです。

 そこに庄助という大変親孝行な男がいて、18年前に亡くなった父親のお墓参りを欠かしたことがありません。

 その評判が殿様の耳に入り「感心な者である。呼び出して褒美を取らせよ」と、庄助はお城に呼び出されました。

「汝の孝心にめでて、殿より褒美を下さるそうじや。何なりと望みの物を申してみよ」

「ありがとうございます。私には、これといって欲しい物とてありませんが、一つだけかなえてほしい願いがあります。しかし、こればっかりは、いかにお殿様でもできぬ相談でございますから……」

「何を言う。お殿様の力でどんなことでもできぬことはない。必ず望みをかなえてつかわすから申してみよ」

「そうでございますか。それじゃ申しますが、死んだ親父を生き返らせて下さい」
 これには家来も慌てました。しかし大きな口を聞いた手前、今さらそればっかりは出来ぬとは言えません。

 そこで家来たちが集まって知恵をしぼったあげく一計を案じたのであります。

「これ、庄助。おまえの父親はいくつでなくなった?」

「はい、45でした」

「そうか。しておまえは今いくつじゃ?」

「はい、43になります」

「ところでおまえは父親似かどうじゃ?」

「はい、親父そっくりだと皆に言われます」

「そうかそうか、それならば……」と、ニッコリ頷くなり奥の方から大きなつづらを運んできて、「この中におまえの親父がちゃんと生き返っておるぞ。ただしこのつづらは誰にも見つからないところに隠しておけ。ふたを開ける時は周りに誰もいないのを見計らってから開けるのじゃぞ。必ず父親がそこにいるからな」

 つづらの中には、一枚の大きな鏡が納められていたのです。

 そうとは知らない庄助、大急ぎで家に帰り、誰にも見つからないようにと二階の押入れにつづらをしまいこんで、そーっとふたを取って中を覗きました。

 薄暗いつづらの底に、まぎれもなく18年前になくなった父親そっくりの顔があります

「おやじさ一ん、お懐かしゅうございます。こんなところにいらっしゃったのですか。少し若くなられたようですが、まあ元気そうで何よりです」

 自分の姿が写っているとも知らず庄助は懸命に鏡に語りかけているのです。

 それからというものは、誰もいない時を見計らっては二階に上がって、鏡に語りかけていました。ところが、その内女房が怪しみだしたのです。

「近ごろうちの人、どうも様子がおかしい。私が帰るとそそくさと二階から下りてきて何か隠しているようだ。何があるのかひとつ覗いてみよう」と、二階に上がって押入れのつづらを見つけ、そのふたを開けたのです。

 中を覗いた女房、ひっくりしたのです。何と、そのつづらの中に女の人が入っているではありませんか。

「どうも様子がおかしいと思っていたら、こんなところに女をかくまっていたのか。私というれっきとした女房がありながら。しかもまあ、よりによってこんな醜い女をかくまって。どうしてやろうか」

 烈火のごとく怒りながら、亭主の帰りを待っていました。

 そうとは知らぬ庄助、家に帰ってくるやいなや「あんた、二階のつづらに誰を隠しているんだい」と問いつめたのです。

「ありゃー見つかってしまったか。あれはなあーお城でお殿様からご褒美にもらったっづらなんじゃ。中に親父さんが入っているのじゃ」

「何をとぼけたことを言うてるの。中に女をかくまっているじゃないの」

「何を言うのじゃ。中に親父さまが入っているんじゃ」

「いいえ、女が入ってます」「いや親父だ」「いや女じゃ」

 夫婦がつかみ合いの喧嘩をしているところに、お寺の和尚さんが通りかかって「まあまあ待ちなさい。何で夫婦喧嘩をしているのじゃ」

 そこで事の次第を聞いた和尚さん「そうかそうか。それならわしが見届けてやろう」そう言うなり和尚さん二階に上がりつづらを明けて覗いたところ、「何じゃ、お前たちがそんなに喧嘩するから中のお人は、面目無いと言うて坊主になったぞ」

 以上のようなお話であります。

 他愛もない笑い話でありますが、自分の姿を知らない庄助たちは、実は私たちの姿でもあると思います。

 昔から「経は鏡なり」という言葉があります。

 それは「仏さまのみ教えは私の心を映しだす鏡だ」ということです。

 親鸞聖人は、その鏡に映し出されるわが身を、厳しく見つめ続けました。

「浄土真宗に帰すれども/真実の心はありがたし/虚仮不実のわが身にて/清浄の心もさらになし」と歌われたように、み教えの鏡に映しだされたわが身の愚かさに深く悲しんでいかれたのです。

 そして、更に大事なことは、まさにその時初めて、このような愚かな者こそを救わずにぱおれないという仏様がいらっしゃったことに目覚めたのです。

 絶望の中に深い安らぎの世界を発見されたのです。

 み教えの鏡はわが身の愚かな姿を映し出すと同時に、仏さまの救いのお心に出会うこよなきご縁になるのです。

 お念仏のみ教えに生きるということは、そんな鏡を持った人生でもあるのです。


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