今月の法話



「渡る世間は仏ばかり」


 ある盲学校の先生が六年生になる全盲の生徒に「もし目が見えたら、何が見たい」と尋ねたそうです。

 すると、その生徒が「先生、そりゃー見えたら、いっぺんお母ちゃんの顔が見たいわ。でも、もし見えたら僕なんかあれも見たい、これも見たいということになってしもて、気が散ってあかんようになるかもわからへん。そりゃ、見えんのは不自由やで。でも僕、不幸やと思ったこといっぺんもあらへん。先生、不幸と不自由は違うんやで」と言ったというのです。

 この生徒は大好きなお母さんの顔さえ見たことのない「光のない世界」を生きているのですが、何という明るさでしょうか?

 この生徒にとって、闇がもはや闇の働きをしていないことがよく分かります。

 それに比べ、光の中に生きていながら不平不満のやまない私たちの日暮を思うと、むしろ私たちのほうが闇の世界を生きているように思います。まことにお恥ずかしいことであります。

 ともすれば、目が見えないということが心の大きな傷となって、自分の殻に閉じこもってしまうのではないかと思うのですが、この生徒にはそんなひ弱さは微塵もありません。

 この少年が語っている「不自由と不幸は違う」という言葉は、以って瞑すべしです。

 さらに驚くべきことは、目が見えたら、あれも見たいこれも見たいということになって、気が散ってだめになってしまうかもしれないと語っていることです。

 これは、目が見えなくても良いという思いだけではなく、見えない方が良いとさえ受け止めている言葉だと思います。

 障害を抱えながらもそれを障害とは思わない。それどころか、その障害さえもよしと受け止めていく。このような遅しい生き方こそ、お念仏のみ教えに相通ずるものがあります。

 親鸞聖人は「念仏者は無碍の一道なり」ということをおづしゃっています。

 それは「お念仏のみ教えを頂けば、私の人生に障害がなくなる」ということでありますが、これはまさに、この全盲の生徒の生き方そのものです。

 ここで、私たちの日暮を振り返って、障害になっているものを考えてみたいと思います。
 障害とは「これさえなければ」というものを思い浮かべてみるとよく分かります。

 果たしてどんなものがあるでしょうか。

 たとえば一家の主婦であれば「嫌味ばっかし言う、あの姑さえいなければ苦労せずにすむのに」と思うことがあると思います。そうすると、その奥さんにとれば姑が障害です。

 あるいは、商売をしている人であれば「商売敵のあの店さえなければ、家の店はもっと繁盛するのに」と思うはずです。すると、この店にとれば商売敵の同業者が障害です。

 また、サラリーマンであれば「ライバルの同僚さえいなければ早く出世できるのに」と、ついつい考えてしまいますが、これもライバルの同僚が障害になっているのです。

 こうしてみますと、私たちの身の回りは障害だらけだと言えるでしょう。

 テレビドラマに「渡る世間は鬼ばかり」というのがありましたが、まさにそのような日暮しです。

 ところが、こうした様々な障害が、お念仏のみ教えを頂くと、なくなるというのです。

 それは私たちが障害だと思っているものは、すべて自分の都合で見ていたということに気づかされるからです。

 あの人は良い人だ、悪い人だ。敵だ、味方だと判断するその基準はすべて自分の都合なのです。そのことに気づかされると、障害だと思っていたものを、改めて見直すことが出来るのです。

 すると、それまで見ていた見方が180度転換するのです。

 先ほどの嫁姑の場合であれば、嫌味を言ったり、注意したり、云いにくいことを言う姑は障害だと思っていたことが、実はそうではなく、そういう人がおればこそ、何とか嫁としての役目を果たしていくことが出来るのだ。

 言いにくいことを言って嫌われたい人など一人もいないのに、それを言うということは、よくよく自分のことを考えてのことなんだ。

 と、受け止めていくことが出来るようになるのです。

 また、商売敵の場合はどうでしょうか。これも同じことです。

 松下電器の創業者である松下幸之助さんは、生前中「松下電器が今日あるのは、他でもない、日立があり東芝があり三菱がありソニーがあり、そういうライバル会社があったからこそだ」とよく言われたそうです。

 競争相手があるからこそ「負けてはならんぞ」と努力した結果が製品の質を高め、お客様へのサービス向上が計られ、今日のような大企業になったと言われるのです。

 このように、私たちが障害だと思っているものを改めて見直してみると、実は私にとってなくてはならないものばかりだということに気づかされます。

 これからも私たちの人生には、さまざまな障害があると思います。

 その障害に出会った時、その判断基準を自分の都合に置くのではなく、いつもお念仏のみ教えに置くことが出来れば、いかなる障害をも恵みとして受け取っていける人生が開かれてきます。

 まさに「渡る世間は仏ばかり」の人生が、そこに開かれてくるのです。


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