「書の道・念仏の道」

 私事になりますが、私はお寺の住職ということもあって、かれこれ30年近く書を習ってきました。

 書の勉強は、まず臨書から始めます。

 臨書というのは、お手本の字を真似て書くことですが、これは自分の字の癖を直すということと、正しい筆使いを習得するためにします。

 お手本は中国の古い時代に書かれた書で、これらを法帖と言います。

 法帖は書の古典と呼ばれ、書を学ぶ者にとって、この古典の臨書が最も大事なことになります。

 私は書を習い始めた頃、こうした法帖を見て「素晴らしい書だな。見事な書だな」とは中々思えなかったものです。
 それどころか逆に「こんな字を習っていて、本当に上手くなるのかな」とさえ思っていました。

 ところが、毎日繰り返し繰り返し臨書していますと、そのお手本の文字の造形の美しさや筆遣いの素晴らしさといったものが次第次第に分かってくるようになるのです。しかも、その良さが分かれば分かる程、今度は自分の書のお粗末さが分かってくるのです。

 これは経験した者でないと分からないとは思いますが、お念仏のみ教えに大変よく似ているなと思いました。

 お念仏のみ教えも、一度や二度聞いただけではその素晴らしさは中々理解できません。

 何度も何度も、繰り返し繰り返し聞いていくうちに、次第にその素晴らしさが分かってきます。そうして、お念仏という真実なるものを知ることによって、我が身の不実さ、我が身の愚かさを知っていくのです。

 仏教に「経は教なり、また鏡なり」という言葉があります。

 これは「お釈迦さまの説かれたお経は私を導き育てる教えであると同時に、私の姿を映し出す鏡である」ということですが、私は古典の臨書を通して、このことを教えられたような思いがします。

 こうして、臨書を続けていきますと、次第に書の技術が身についてきます。そうすると今度は、これまで学んだ古典を生かしながら自分の作品を作っていくことになります。

 作品作りは、自分で書体や構成を考え、筆、墨、紙などを工夫しながら作品を作っていきますから、大いに創作意欲が駆り立てられます。そうしてこの頃から、書の面白さが分かりかけてくるのです。

 ところが、こうして作品作りの面白さが分かってくると、堅苦しい古典の臨書はどうしても、おろそかになってしまいます。極端な場合は全く臨書をしなくなります。

 そうなると、いくら流暢に書かれた作品であっても、古典がベースにありませんから、大変格調の低い、独りよがりの作品になってしまいます。

 書の上達が止まるのも、この頃からです。

 書を学ぶ者にとって大事なことはあくまでも古典を仰ぐ気持ちを失わないということです。

 作品作りは、繰り返し繰り返し臨書したことを応用し、生かしていくことが大事なのです。

 これもまたお念仏のみ教えに、通じるものがあると思います。

 お念仏のみ教えは何度も何度も聞かせてもらったことを実生活の中で応用し、生かしていかなければ意味がありません。

 私たちの日暮らしは自分の筋書き通りには行かない、応用問題ばかりですが、どんな時でも、お念仏のみ教えを通して解決していく。そこが大事なのです。決して、自分の判断に頼ってはダメです。

 自分の判断に頼ると、必ず独りよがりな解決になってしまいます。

 と言いますのも、私たちは生まれながらに「我執」というものを抱えています。我執は「自分は正しい、自分は間違っておらん」、という自分を正当化しようとする心です。

 そんな我執を土台にして、実生活の応用問題を解決しようとすると、「自分は間違っておらん、自分は正しいのに、何でこんなことになったんだ。こうなったのはあれが悪いからだ、これが悪いからだ」と、必ず自分の都合の良いように解決しようとするのです。

 これでは、いくら経っても問題は解決しません。

 だからこそ、み教えを仰ぐことが大事になってくるのです。

 み教えは私を照らす鏡です。その鏡に照らされる時、「あれが悪い、これが悪い」と、外を向いていた私の目が、「そうではなかった。こんなことになったのは、この私が悪かったからだ」と、内向きに変わるのです。

 それが人生の応用問題を解く鍵になるのです。

 私たちの人生は筋書きのないドラマだと言われます。そのドラマの主人公はもちろん私です。演出も監督も私です。

 その人生ドラマをどんな作品に仕上げていくか、まさに私自身にかかっているのです。

 いかなる時でも、お念仏のみ教えを通して人生の応用問題を解決していくことが出来れば、古典の臨書を通して書かれた作品のように、深い感動を呼ぶ、見事な人生ドラマという作品を仕上げること出来るのです。


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