「発明と発見」


 仏教は2500年前、お釈迦さまによって開かれた教えですが、その教えは今も私たちの心を照らす鏡としてその輝きを失っていません。

なぜ、 2500年も昔に説かれた教えが、科学文明の進んだ現代でもその輝きを失わないのでしょうか。

 それは、この教えがお釈迦さまによって「発見」されたものだというところに大きな理由があると思います。

 一般に、仏教はお釈迦さまが作り出したものだと思われていますが、実はそうではありません。

 もし、お釈迦さまが作ったものでしたら、それは「発明」ということになります。

 「発明」とは、それまでなかったものを、新しく作り出すということです。

 新しく作り出されたものは、時代と共に進化していきます。

 例えば、飛行機は100年ほど前にライト兄弟によって発明されましたが、発明後は改良に改良を重ねられ、今では一度に数百人の人を乗せ、ジェットエンジンをつけ高速飛行ができるようになりました。

 もちろん、発明当時の飛行機などは、現代では古臭くて誰も使いません。

 それと同じように、仏教の教えが発明されたものでしたら、時代と共に進化したはずです。

 そうでなければ、古臭くて今の時代に合わなくなります。

 ところが、その教えはお釈迦さま当時から一歩も進化していないのに、今も多くの人々に 求められているのは、それが「発明」ではなかったということが言えると思います。

 お釈迦さまは教えを説くにあたり、 「私は古仙の道を発見しただけだ」とおっしゃっていますが、つまり、すでにこの世にあったものを発見したのです。

 発見は発明とは違います。

 「発見」というのは、すでにこの世に存在していたけれども、誰も見つけることの出来なかったものを見つけ出すということです。

 例を挙げれば、ニュートンが約300年前に、引力を発見しましたが、引力はニュートンが生まれる前から存在していました。もちろん、現在も存在していますし、またこれからも、ずっと存在し続けるでしょう。

 ただ、ニュートンがこの世に出るまで誰も気づかなかっただけです。それをニュートンが見つけ出したというわけです。

 こういう時、 「引力は300年も前に発見されものだから、古臭くて現代では役に立たない」ということにはなりません。

 つまり、発見されたものは、 「古い、新しい」という尺度で測るものではないということで
す。

 これが「発見」というものです。

 仏教も、全くこれと同じことが言えるのです。

 その教えが、今もその輝きを失わないのは、まさに発見された教えであったということにあるのです。

 そこで、お釈迦さまは何を発見されたのかと言いますと、この世界は縁起の道理という法則で出来ていることを発見されたのです。

 この、 「法則の発見」ということが大変重要なことです。

 法則といえば1+1-2という法則があります。

 この法則を使えば、いつの時代でも、誰が使っても同じ結果が出ます。

 一万年前でも、現在でも、また、ノーベル賞をもらうような大科学者が使っても、人殺しをしたような大悪人が使っても、同じ結果が出ます。

 これが法則というものです。

 誰が使っても、いつの時代に使っても、その結果が同じになるということは、法則の前では、いかなる人も差別しないということです。

 ですから、法則は、いつでもどこでも誰にでも平等にはたらくということです。
 お釈迦さまは、 「私はこの教団の指導者であるとは思っていない」とおっしやっています。

 それは、教え(法則)の前では、みんな平等だということを宣言しておられるのです。

 我が宗祖、親鸞聖人も「私は弟子一人も持たない」とおっしやっていますが、このお言葉は、お釈迦さまの精神を見事に受け継がれたものだと思います。

 こうしたところに、仏教の教えが、他に類を見ない素晴らしい平等精神で貫かれているということがお分かり頂けると思います。

 近年、自ら教祖と名乗り、指導者面をして、多額の金品を巻き上げるという.いかがわしい宗教団体が実に沢山ありますが、親鷲聖人は、そういった宗教を「仏教の姿をした外道」
だと厳しく戒められましたが、本当に心すべきことだと思います。

 お釈迦さまによって発見されたこの教えは、人類史上、最も価値のある発見です。

 そのみ教えに出合えたことに深く感謝しながら、そのみ教えの前では、私たちはどこまでも謙虚であり続けたいものです。

 いつでも、どこでも、誰でもが、その教えの前では等しく救われていく。それが仏教という教えなのです。


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