「お礼の現金払い」


 江戸時代、九州の博多に仙崖(せんがい)さんという、まことに痛快な禅宗のお坊さんがおられました。

 今でも博多では誰一人知らない者はいないというほど有名なお坊さんです。

 仙崖さんには多くの逸話が残されていますが、その中に次のようなお話があります。

 ある時、仙崖さんが外出からの帰り,ぬかるんだ道の真ん中で下駄の鼻緒を切らして立ち往生していました。

 これを見ていた近くの豆腐屋の女将さんが「マ-お気の毒に」と、飛んでいって鼻緒をすげかえてあげたのです。

 急いで帰る仙崖さんの後ろ姿を見て「あー良いことをした」と女将さん、その日は心も軽く、大変気持ちの良い一日を送ることが出来たのです。

 さて、翌日のことです。

 女将さんが店の前で掃除をしていると,向こうから仙崖さんが歩いてくるではありませんか。

 それを見た女将さん、とっさに昨日のことが頭をよぎり、当然お礼の言葉をかけてくれるだろうと、心ひそかに待っていました。

 ところがどうしたことか、仙崖さん「やーおはよう」と声をかけただけで通り過ぎてしまったのです。

 拍子抜けした女将さん、少々不満が残りましたが、 「きっと仙崖さんはお年で目が悪いから、昨日鼻緒をすげかえたのが私だったということがわからなかったに違いない」と思い直して、 「それなら帰りは道の真ん中で待っとってあげよう」と、仙崖さんの帰りを待つことにしました。

 今か今かと待っている女将さん,当然仕事に熱が入りません。

 ようやく夕方になって.仙崖さんの帰ってくるのを見た女将さん、今度こそはと道の真ん中まで出て行ったのです。

 女将さんの姿を見た仙崖さん「やあー」と声をかけただけで、またしてもお礼の言葉もなく通り過ぎてしまったのです。

 そうなると治まらないのが女将さんの胸のうちです。

「私はお礼を言ってもらいたくて、したわけじやないけど.せめて一言ぐらいは礼を言うのが人情ではないか。そりゃーなるほど助けてあげたといっても鼻緒のすげかえ程度の小さいことかも知れんが、これではあまりにも人の親切を踏みにじる仕打ちじゃないか」

 こう思うと、胸のうちがむかむかして治まりません。その後2度、 3度仙崖さんと出会ったのですが、やはりお礼の言葉をかけてくれません。

 とうとう業を煮やした女将さん、仙崖さんの信者のところへ行って.事の始終を話し、恨み、つらみの数々をまくし立てたのです。

 それを聞いた信者さん「そりゃーあんたの言うはうが正しい。今からわしが抗議に行ってくる」と、仙崖さんのところに出向いていったのです。

 信者さんの話を聞き終えた仙崖さん、

「そうかそうか、それはまことに気の毒なことをした。実はワシはあの時の親切を本当に身にしみてありがたく恩うていたのじゃ。

 困った時に受けた親切はとても銭金で返せるものではない。まして、口先だけの礼ですませるものではないんじゃ。

 ところが人間というものは浅ましいもので、どんな大きなご恩を受けても、お礼を言いさえすればそれで帳消しになったように思うもんだ。

 ワシはそれがいやさに,わざと心の帳面に刻んで、一生かかってそのご恩を頂いていこうと思っておったのに、女将はそれを現金で払えというのか。

 それならお易いことじゃ。明日にでも早速払ってくることにしよう」

と、答えたのです。

いかがでしょうか。

 この逸話は人間の親切や真心といったものの正体を見事に言い当てたお話だと思います。

 よく私たちは「お礼を言ってもらうためにしたんじゃない、真心でしたんだ」と言います

 が、その実お礼を言ってもらえなかったり、お礼の言い方が悪かったりすると,無性に腹が立つのです。

 本当に純粋な親切心からしたのであれば、相手がお礼を言おうが言うまいが、そんなことは問題にしないはずです。

 ところが、私たちの親切には「我執」という不純物が混じるのです。

 我執の混じった親切には「してやった、やってやった」という思いが付くのです。

 他人から受けた親切はすぐに忘れるくせに、こうして自分のした親切だけは,わずかばかりの親切でも「してやった、やってやった」と自惚れて、何時までたっても忘れないのです。

 確かに親切は立派な善根ですが,私たちはこうしてこの善根に我執の毒を付けるものですから、せっかくの善根も片っ端から腐らせてしまうのです。

 親鸞聖人はこのような私たちの善を毒の混じった善、すなわち「雑毒の善」とおっしゃっています。

 親鸞聖人のご和讃に次のようなのがあります。

 悪性さらにやめがたし こころは蛇轍のごとくなり
 修善も雑毒なるゆえに 虚仮の行とぞなづけたる

 まことに厳しい自己凝視です。

 これほどまでにご自身の心を偽らず,赤裸々に告白されたのは「ごまかすことを許さない目」に出道ったからです。

 その目こそ「阿弥陀さまの目」だったのです。

 人間の社会はごまかしの効く社会です。

 そんな世界に住んでいる私たちにとって、ごまかしの効かない目の前に座らなければ、本当の自分に出道うことはありません。

 念仏者の人生は、 「阿弥陀さまの目」を通して、何時も我が心を照らしていく人生です。

 そこに初めて、慢心におぼれない本当の自分を見つめた謙虚な人生が開かれてくるのです。


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