「心か形か?」H18.4放送

 毎年1月、同じ先祖を持つ人々が集まって先祖法事というものが行なわれています。
その法事では、読経中に回し焼香をするのですが、これまでお焼香の作法がてんでばらばらでしたので、今年はお勤めを始める前に、浄土真宗の正式なお焼香の作法をひとしきり説明して、皆さんにその通りにやってもらいました。

 こうして、無事お勤めが終り、いつもながらの会食になった時のことです。

 普段まったくお寺にお参りに来たことのない方が、次のように言われるのです。

「今日はお焼香の仕方を色々と聞かせてもらいましたが、私は作法なんかどうでも良いと思っているんです。何と言っても心が大事です。心がこもってさえいりや、どんなやり方をしてもいいんじやないですか。人間、何事も真心でするということが大事なことでしょう」
と言われるのです。

 つまり
「形より心。形にこだわるより心が大事である。いくら形が立派であっても心が伴わなければ意味がない」というのです。
どうでしょうか?
 こうした考え方をする人がよくいます。
 そこで私は、次のように答えました。

「あなたの仰ることは分からぬでもありません。確かに仏教では心の問題を扱います。何事においても、まず心が大事であると説きます。しかし、心が立派であれば形はどうでも良いと考えるのは大きな間違いです。それは、例えてみれば、お祝いする気持ち(心)があるからといって、寝巻き姿(形)で結婚式に出席するようなものです。

もし、その寝巻き姿(形)を注意された時、『いや私は誰にも負けないくらいお祝いをする気持ち(心)がある。服装くらいで、やかましく言わなくてもいいではないか』と言った
ら、それはやはりおかしいでしょう。

なぜなら、あなたのその心を、他人は何で知ることが出来ますか?
あなたの身なり、つまり形で知るより他、知りようがないでしょう。
寝巻き姿を見て、『あー本当に心からお祝いしてくれているんだな』と思いますか。
そうは思わないでしょう。それどころか、何と無礼な奴じゃと腹を立てると思います。

あなたは、心がこもっておれば形はどうでも良いと言いますが、形は目に見えない心を表すものです。形を通して見えない心が伝えられていくのです。

ですから、お祝いしたいという「心」を相手に伝えたいのであれば、少なくともその結婚式にふさわしい服装(形)で出席することが、まず大事なことじやないですか。

まあ、結婚式に寝巻きというのは極端な例かもしれませんが、心さえ立派であれば形はどうでもよいというのは、そういうことになるのです。

我々の誤解というものも、形はどうでも良いということによって起ることが多いのです。

もし、誤解されるようなことがあれば、誤解されるような態度をとったのではないかと、思い直すことが大事なのです。

それから、今一つ大事なことがあります。

「心がこもってさえいれば・・・」ということですが、お念仏の教えを頂くと、実は一番あてにならないのが私たちの「心」だと教えて下さるのです。

 あなたは『人間、真心が大事だ』と、言いましたが、私のどこをつついてもそんな立派なものを持ち合わせていないのです。

 親鸞聖人が「虚仮不実の我が身」と仰るように、私たちには真心のかけらもないことを知らねばなりません。
ですから、『真心さえあれば・・・。心がこもっていれば・・・』と考えるのは、自惚れ以外の何物でもないのです。

『人間真心が大事だ。形などはどうでもよい』と理屈を言う前に、まずお念仏のみ教えを聞いてみて下さい。

そうすれば、『自惚れていたんだなあ。愚かなことを考えていたんだなあ』ということが分かります。その上で、定められた作法をなんとか身に付けようとする、それが念仏者のたしなみというものです」
と話したことでした。

 心と形、どちらが大事であるかと言われれば、どちらも大事であると言えるでしょう。

 阿弥陀さまは色も形もない真実の世界から、南無阿弥陀仏の呼び声となり、姿かたちを示された仏さまです。

 それは、「形」を表すことによって、生きとし生きるものを救いとりたいという大悲の「心」を私たちに知らせんがためでした。

私たちは、その呼び声や、姿かたちを通して、初めて阿弥陀さまのお心を知っていくことが出来るのです。

 大事なことは、「形」を通して、その奥にある「心」を見つめていくことだと思います。


「テレフォン法話」開設中 0897(53)4585


法話を聴くためにはフラッシュのプラグインが必要です。