「いのちの日めくり」 H18.12放送

 浄土真宗の布教使として活躍された雑賀正晃先生の著書「自己を灯と為す」の中に、先生と親しかったあるお寺の住職のことが書かれていました。
 そのご住職というのは、少し以前から体調を崩され、病院で診察を受けるのですが、診断の結果、すでに手遅れの癌で、長く生きてもあと3ヶ月の命だということが判明するのです。
 このことは本人に知らせず、住職の奥さんだけに知らされました。


 しかし、動揺を隠せない奥さんの様子に、そのご住職は、自分の病気が予想以上に重いことを悟り、担当の医師に尋ねるのです。

「先生、正直なところ私の病状はどんなものでしょうか。
病気がかなり重いことは家内の様子を見れば分かります。
おそらく先生は、私に本当のことを知らせるのは忍びないと思われてのことでしょうが、そんなお気遣いはご無用です。
もし、今ここで、あと1月の命だと聞かされて泡を吹いてぶっ倒れたとしても、
『無理もない』と仰って下さるのが私どもの仏さまです。
『後に残す妻や子供のことを思うたら、死んでも死にきれんわなぁ。それが当たり前じや』と、涙を浮かべてくださるのが親鸞聖人というお方なんです。
何もことさら表面だけを立派ぶる必要などどこにもないのです。
ありのままで救われていくのが私どものお念仏の教えです。
ですから先生!
ご心配は要りません。
どうか本当のことを教えてください」

 このご住職の言葉に、担当の医師は感動を禁じえず、改めて本当のことを告げるのです。
 医師の言葉は、文字通り「死の宣告」です。
 住職ならずとも、夢なら覚めて欲しいと願わずにはおれないまことに残酷な現実です。
 担当の医師から強く入院を勧められるのですが、ご住職は、長くない命ならば、残された日々を悔いなく過ごしたいと、たっての入院を断り自坊へと帰るのです。

 お寺へ帰った住職が、まずしたことは、3ヶ月分の「日めくり」を作ることでした。

 3ヶ月のいのちと宣告されていますから、それ以上の「日めくり」は必要ありません。

 その「日めくり」を自室の柱に打ちつけ、その日から一日終えるごとに一枚づつ破っていったのです。
 一枚破るたびに「ああ、今日も一日生かされた・・」という思いと同時に、かけがえのないその一枚を破らねばならぬ惜しさに、深い嘆息を禁じえなかったそうです。

 3か月分の「日めくり」は、そこそこの厚さがありますが、一日一枚、日を追って薄くなるその「日めくり」は、それを破る住職の残された命の長さでもあるのです。

 まさに、「いのちの日めくり」です。

 こうして一日一日、「いのち」をいとおしみながら生き抜いたご住職は、ついに後3枚残すところで命が尽きました。
 住職の過ごされたその3ヶ月は、まことに荘厳な光り輝いた日日であったろうと思います。

 思えば、この「いのちの日めくり」は、私たちが、この世に生を受けた時から、誰もが持ち続けているものです。

 ただ、私たちは、その「日めくり」が最初から70年、80年と綴られているように思っていますから、その一枚に何ゐ重みも感じることなく、一日終えるごとに安易に破り捨てているのです。

 平均寿命をあてにして、「あと30年は生きられる」、「あと20年は大丈夫だ」、そんな緊張感のない気持ちで、私たちは日めくりを破っているのです。

 私事になりますが、実は私のお寺にも毎年「日めくり」の暦が、あるタクシー会社から送られてきます。

「日めくり」は、眼のつくところに掛けているのですが、不精な私は、しょっちゅう破り忘れ、何日もたって、あわてて4日分、5日分と、まとめて破ることがあります。
 もちろん破った日めくりは、くしやくしやと丸めてゴミ箱に捨ててしまいます。

 先ほどのご住職が懸命に生きた一日一日を、私は4日も5日もまとめてゴミ箱に捨てているのです。
まことにお粗末な日暮らしをしていることに気付かされます。

 しかし、いのちの本当のあり方から言えば、確かなことは、「今、このひと時」だけですか

ら、「いのちの日めくり」はその日の一日分だけしか掛かっていないというのが本当なのです。
 そうして、無事その日が終わり、めでたく次の日を迎えることが出来た時、前日の一枚を破り、新たにその日の一日分だけの日めくりを掛けるのです。
 それが「いのちの日めくり」の本当のあり方だと思います。

 かけがえのない一度きりの「いのち」を頂いている私たちです。
 一日一枚、「いのちの日めくり」の重さをしっかりと受けとめ、この「いのち」を本当に生かしきる道を求めていきたいものです。

 仏教はまさに「生かされたいのちをいかに大切に生きるか」。
そのこと一つを説いている教えなのです。


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