「源信僧都の母」H19.5

 仏さまのお心をよく次のような歌で表されます。

 父は照り
 母は涙の雨となる
 同じ恵みに育つなでしこ

 これは、仏さまのお心には、父のような厳しさと母のような優しさの二つの面があるのだということです。

 それを仏教では「折伏」と「摂取」と申します。

 折伏とは「間違っておるぞ、迷うておるぞ」という叩き伏せる厳しさです。

 そして、その折伏の心の底には「正しい道を歩んでほしい。目覚めてほしい」という摂取の心、すなわち救わずにはおれないという優しさの心があるのです。

 そうして、当然のことですが救いたいという摂取の心が強ければ強いほど、折伏の心も強くなってきます。

 そんなことを私たちに教えてくれる説話があります。
源信とその母親の物語です。

 源信は幼名を千菊丸と言い、平安時代の中期、奈良県当麻という所で生を受けられました。
 7歳の時父を失い、母の手一つで育てられれのですが、幼少の頃より大変利発な子供で、その神童ぶりは多くの人々の評判になり、ついに9歳の時「ぜひ僧侶になってもらいたい」と比叡山から使者がやってきたのです。
 千菊丸の母はその出家の話に大いに悩みました。

 ここで我が子を手放せば、おそらく今生ではもう二度と我が子に会うことはないであろうということを母には分かっていたからです。
 しかし、我が子の行く末を思う母なればこそ、ついに一大決心をして千菊丸を比叡山に送り出すことにしたのです。
 その別れは、我が身を引き裂かれるより苦しかったことでしょう。

 こうして9歳にして比叡山に登った千菊丸は、13歳の時、名を源信と改め正式に仏門に入りました。

 源信のその素晴しい才能は仏道修行においても遺憾なく発揮され、仏門に入ってわずか2年後、すなわち源信15歳のとき、時の帝、村上天皇の御前で「称賛浄土教」というお経を講義されたのです。

 その講義の素晴しさに帝はいたく感激され、源信に数々の褒美の晶と「僧都」という位を授けられました。

 源信は嬉しさの余り、郷里で一人暮らしている母に喜んでもらおうと、手紙と共にいただいた褒美の品を送られたのです。

 ところが、母は源信の手紙をつぶさに読み終えた後、次のような歌を一首したため、褒美の品を源信のもとに送り返されたのです。

   後の世を 渡す橋とぞ思いしに
   世渡る僧と なるぞ悲しき

意訳しますと、

「あなたを出家させたのは、この世で苦しみ迷う人々に生きる喜びの灯をともし、仏さまの世界に渡してあげる橋の役目になってもらえると思ったからです。
 お母さん喜んで下さい!
 そんな僧侶になりましたと言ってくれるのなら、この母は喜びもしましょう。
 ところが、あなたは位が上がった、褒美の品を頂いたと、我が身の自慢をしているだけではありませんか。
 それではただの世渡りの道と変わりません。
 そんな世渡りのためなら比叡の山で修行する必要はありません。
 この母はこの上もなく悲しみで一杯です」

という返答の歌であります。

 もちろん源信の母も人の親です。しかも身を切る思いで手放した我が子です。
 そんなに立派になったと聞かされたら、心の底では涙が出るほど嬉しかったに違いありません。
 年端もいかぬ我が子が帝に褒められて、喜ばない親などいません。喜んで当たり前です。
 我が子の嬉しそうに喜ぶ姿を想像すれば、一言なりとも「よく頑張ったね」と、誉めてあげたかったはずです。

 しかし、もしここで我が子に「立派になりましたね。この母もこの上なく喜んでいます」と、言葉をかけてしまったならば、おそらく我が子は有頂天になって、自惚れの強い、他人を見下すような僧侶に成り下がってしまうであろうと思ったのです。
我が子の行く末を思えば思うほど、母は心を鬼にして、我が子の慢心を戒める歌を、涙と共に送らずにはおれなかったのです。

 そこには「どうか立派な僧侶になっておくれ。後の世を渡す橋になっておくれ」という、やるせない願いがあるだけなのです。

 この厳しい母の戒めは源信の心に深く刻み込まれました。

 それから後、源信は比叡山でも最も奥深い横川というところに住まわれ、終生その地を離れることなく仏道修行に精進され、多くの仏弟子を育て、数々の書物を書き残されました。

 特に、親鸞聖人は源信僧都を我が国に初めてお念仏のみ教えを広められた方として、浄土真宗の七高僧の一人に挙げられ、その著「往生要集」は我が宗の重要な聖典として、後の世に生きる私たちの大きなともし火になっております。

 まさに、源信僧都は「後の世を渡す橋」になられたのです。

 この母の我が子源信への戒めの歌こそ、折伏と摂取の仏さまのお心に喩えられるものだと思います。

 阿弥陀さまは私たちに向って「煩悩具足の凡夫よ。罪悪深重の凡夫よ」と呼び続けておられます。
それは阿弥陀さまの折伏の心です。

 そのお心は私の慢心を叩き潰すお心です。
 そして、そのお心の底には「どうあっても捨ててはおけない」という摂取の心があるのです。
 慢心の心を叩き潰しながら「だからこそ捨ててはおけないんだよ」と下がりつめるお慈悲の中に、間違いなくこの私が包まれてあることに気づかせてもらう、それが念仏者の信心であります。
まことに、深い安らぎの世界です。


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