「自由に生きるとは?」 H19.7放送

数年前、産経新聞「朝の詩」に次のような詩が掲載されていました。

凧が空高く飛べるのは
誰かが糸を
引っ張っているから
でも凧は
その糸さえなければ
もっと自由に
空を飛べると
思っている
その糸がなければ
地上に
落ちてしまうのも
知らずに

以上のような詩です。
「自由に生きるとはどういうことなのか」よく分かると思います。
私たちは誰もが「自由に生きたい」と願っていますが、私たちの考える「自由に生きる」とは「誰にも邪魔されず、何の制約も受けずに生きること」と考えています。

ですから、邪魔なもの、制約を受けるものがあれば、当然それを排除しようとします。

よく、「これさえなけりやもっと自由に出来るのにナァ…」と言ったり、「あの人さえいなけりやあ、万事うまくいくのにナァ…」と言うことがありますが、これは、自由を妨げるものを取り除きさえすれば自由に生きられるという考え方に立つものです。

しかし、詩の作者はそうではないと言っています。
糸あるがゆえに凧は空高く舞い上がることが出来るように、邪魔なもの、制約を受けるものがあるからこそ、人は雄雄しく逞しく生きることが出来るのだと言っているのです。

つまり、邪魔なもの、制約を受けるものを排除するのではなく、それを受け入れていくことが大事だということです。
「これさえなけりや…」ではなく、「これあればこそ…」と受け止めていくのです。

そうすれば、それまで邪魔だと思っていたものを邪魔だと感じない、制約を受けていたものを制約だと感じなくなるのです。

ここが大変大事なところなのです。
つまり、自由を妨げるものを妨げだと感じなくなった時、真の自由な生き方が生まれてくるのです。
これは「自由に生きる」というよりも「自在に生きる」と言った方が正確な表現かもしれません。

そこで、改めてお念仏の教えを振り返ってみますと、この生き方は、お念仏のみ教えに大変近いものがあります。

親鸞聖人は「念仏者は無碍の一道なり」(『歎異抄第十条』)と仰っておられます。意味は、念仏者は障害のない人生を歩むことが出来るということです。

ここで言う「障害のない人生」というのは障害を障害と感じない人生ということです。
障害は依然としてあるのですが、それを障害としない、そういう人生を歩むことが出来ると言うのです。

何故そんなことが出来るのかといえば、念仏者は「我が身に起きる一切の出来事は、お念仏を喜ぶ大事なご縁なんだ」と頂くからです。

妙好人(篤信の念仏者)として名高い足利源左さんは、どんな時でも「ようこそ、ようこそ、南無阿弥陀仏」と過ごされたと聞きます。
つらいことがあっても悲しいことがあっても、そこから逃げるのではなく、むしろ喜んで「ようこそ、ようこそ」と前向きに受け止めていかれたのです。

そこには、「私の人生に何が来てもかまいません。そのすべてが私にとって、お念仏を喜ぶ、こよなきご縁です」という念仏者としての確かな了解があったからです。
思えば、私たちの人生は老、病、死を始め、苦労、失敗、不運等々障害だらけの人生です。

そんな中にあって、何事もお念仏を喜ぶ大事なご縁としていただくことが出来た時、障害だらけのこの人生が障害のない(障害を障害と感じない)人生へと転じられていくのです。
しかも、その障害を「恵み」とさえ頂くことが出来るのです。
それが「信心の智慧」、「智慧の念仏」と言われるゆえんなのです。

まさにお念仏のみ教えこそ、真に自由に生きる道を説いたものだと思います。
それは文字通り「自在に生きる人生」だと言えるでしょう。


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