「道徳と念仏」H19・9放送

妙好人(篤信の念仏者)として名高い足利源左さんに多くの逸話が残されていますが、代表的なものに次のようなお話があります。
ある時(大正11,2年頃)、鳥取県の智頭町という所に、京都の一灯園の西田天香師が講演に来られたことがありました。


源左さんも講演を聴きに行くのですが、何かの事情で遅れてしまい、会場に着いた頃には、もうすでに講演は終わっていました。
天香さんも気の毒に思って、その晩宿で会われたのです。


「お爺さん、聞けばあんたは遠いところからおい出たのに間にあわなんだそうで悪かったナァ。歩いてきたそうで、しんどいことはないかなあ」と、天香さんがねぎらいの言葉をかけると、源左さんは、「ありがとうござんす。オラは、先生さまにくらべたら近い所だが、先生さまこそ遠い所から見えて、オラどもに良いお話をなさったそうで、さぞ肩がお凝りでしょうがやあ。肩を挟ませてつかんせ」と、こう言って、肩を挟みながら二人の会話が始まったのです。


「先生、今日のお話は、どういうお話でござんしたかやあ?」と、問いかける源左さんに、「いや別に難しい話をしたのではないんじゃ。歳が寄ると気が短くなって、よく腹が立つようになるものだが、なんでも堪忍して、こらえて暮らしなされや。
そのことを話したんだが」と天香さんは答えたのです。
すると源左さんは、「オラはまんだ人さんに堪忍してあげたことはござんせんやぁ。人さんに堪忍してもらってばかりおりますだいな」と、独り言のようにつぶやいたのです。


天香さんにはその意味が分かりかねたようで、「お爺さん、何と言われたか、今一度言うてくれんかな」と問い直すのです。
源左さんは「ハイ、オラは、人さんに堪忍してあげたことはないだいなあ。オラの方が悪いけ、人さんに堪忍してもらってばっかりおりますだがや」と答えたのです。


これを聞いた天香さんは、「なんと浄土真宗の同行には偉い人がおるもんじゃ。
私が肩をもんでもらうようなお爺さんではない」とおっしやったということです。


この二人の会話には、道徳と念仏の違いがよく出ていると思います。

天香さんの説く「何事もこらえて暮らしなされや」というのは道徳の世界です。
それに対して、源左さんは「愚かな私は、人さまをこらえたことがありません。
人さまにこらえてもらってばかりです」と答えました。

これが念仏の世界です。


確かに、社会生活を営む上で「何事もこらえましょう」、「迷惑をかけないようにしましょう」、「親切にしましょう」といったことは大事なことですが、果たしてそんな立派なことが、実際にこの私に出来るのかということです。


「何事も辛抱しましょう」と言いますが、もし相手が喜ばなかったり、或は当たり前のような顔をされたらどうでしょうか。


「これだけ辛抱しとるのに、少しは感謝したらどうじゃ。誰のために辛抱しとると思うとるんじや」と、腹を立てると思います。


そうでなくても、立派なことをしているという意識が私たちにはありますから、少しばかり辛抱するだけで、「こうして何事も順調にいくのは、ワシの辛抱があるからじや」と自惚れて、しまいには「こんな立派な自分に比べ、皆は何と自分勝手なんじや」と、他を見下してしまうのです。


このように、ちょっと立派なことをしようとすると、すぐに思い上り、人を見下すようなことをしてしまうのが私たちなのです。


ところが、人間社会は、ごまかしが効きます。
ですから、表面だけはいくらでも立派そうに振る舞うことが出来るのです。
偽善が善で通るのがこの社会です。


そこに道徳の甘さがあり、また限界があると思うのです。


そこをごまかすことなく、「小慈小悲もなき身にて 有情の利益は思ふまじ」と厳しくご自身を見つめていかれたのが親鸞聖人です。
このお言葉の意味は、「思いやりの心も持ち合わせてないこの私は、人のために役に立つような立派なことなど何一つ出来ません」ということです。


これほどまでに、ご自分の心を偽ることなくありのままに告白されたのは、ごまかしの効かない阿弥陀さまの目に出遭われたからです。

その目は私のすべてを知り尽くした智慧の目です。ですから、その日に出遭うことによって、愚かで浅ましい我が姿が知らされていったのです。


しかも、愚かな者よと教えるのは、「だからこそ捨ててはおけないんだよ」という大悲のお心の表われだったのです。


そのお心をいただく時、無上の喜びと安らぎを覚えると同時に、決して慢心におぼれない謙虚な日暮らしが開かれてくるのです。


お念仏を喜んだ源左さんも、まさにそうした日暮らしを続けてこられたのです。
それが冒頭の「人さんに堪忍してあげたことはないだいなぁ。オラの方が悪いけ、人さんに堪忍してもらってばっかりおりますだがや」と、いう言葉になったのです。


阿弥陀さまの大悲の目を通して、「とてもとても人さんをこらえてあげるような立派な私ではありません」と、我が身の愚かさに慚愧し、「皆さんがこらえてくださるから日暮らしが出来るのです」と生かされてあることを深く感謝していく、まさに「慚愧と感謝」の人生、それが念仏者の人生です。
う。


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