「病に生きる」H20・1放送
 数年前、福井新聞に掲載された「病という名のあなたへ」という作文を紹介したいと思います。

著者は、当時福井県の高校一年生の高間史絵さんという女性です。
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私は病(あなた)を恨んだ。

辛いから恨まずにはいられなかった。

苦しいときはこの身を切り開いて病(あなた)をつかみ出し、切り刻みたいと思うほどに憎んだ。

それでも事足りず、病(あなた)が遺伝性が高いと知ると、私は父を恨み、母も恨んだ。

それでも、祖母が病(あなた)に侵されたときは、皆で母を助け、家族が一つになれたことに、私は感動し、病(あなた)は優しさを教えるためにこの世に存在しているに違いない、と確信した。

なのに、いざ病(あなた)が私にふりかかると、私の中に優しさは生まれなかった。

友達が「頑張ってね」と見舞ってくれると、「私の頑張りが足りないっていうのか」と悪態をついた。

友達が、「早く良くなってね」と励ましてくれると、「私がわざとゆっくりしているというのか」とひねくれた。

その上、同情は嫌だと自分を出すことさえ拒んだ。
病(あなた)を恨み続けることでしか、自分の存在も見えなかったのかも知れない。

でも、つい数日前、一人の友が16歳の若さで亡くなった。

突然のことで、誰もが心を痛めた。

私も苦しかった。

その苦しみを、迎えに来てくれた母に話した。

母は「どうして…」と言うと、そのままずっと涙した。

家に着くまで、母の涙が乾くことはなかった。

祖父は「代わってやりたいだろうな」と家族を思い、父は「史絵は大丈夫?」と、私を気遣ってくれた。

その夜、寝付けぬ私の枕元に母が座り、私が寝付くまで、私の頭をずっと撫でてくれていた。

涙を押し殺すように、時々途切れる母の鼻息が、私の肩を優しく抱いた。

こんな世話のかかる私、そう、病(あなた)をひっくるめた私のすべてを、誰もが大切に思ってくれていることを、私は強く感じた。

次の日の葬儀では、多くの人の、さまざまな悲しみがそこにあった。

ひとつの命を誰もがいとおしいと思っているのを、痛いほど感じた。

病(あなた)が、なぜ彼女を奪ったのかはわからない。

しかし、その場の私は、たとえ自分が病(あなあた)と一緒であろうと、今、自分に命あることを感謝せずにはいられなかった。

ある人が、「人の苦しみは、その人が越えられる分だけ与えられる」と言った。

ならば、病(あなた)が私の元にやってきたのは、私の周りには私を助けてくれる人がたくさんいるからなのだろうか。

考えてみると、病(あなた)がいるからこそ、人に素直に頭を下げることが出来るのかもしれない。

かといって、私は病(あなた)を好きではないのだと思う。

そう、私は病(あなた)に負けたくない。

でも正直いって、治るはずもない病(あなた)と戦いたくもない。

今となっては、病(あなた)がいる私こそ私であると思えなくもないから。

だから私、これから先は、病(あなた)と仲良く生きていきたいなあ。

ねえ、病(きみ)!

仲良くやっていこう。

そして、病(きみ)が見せてくれる私の決心(こころ)と、人の情(こころ)を捜してみたいなあ。
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 以上のような作文です。

 わずか16歳の少女が、不治の病に侵されながらも、懸命に立ち上がっていこうとする、その姿に深い感動を覚えます。

 私たちはこの人生を歩む中で、時として思い通りにならないことに出くわします。

 そうした時、その思い通りにならない原因、つまり障害になっているものを取り除きさえすれば、たいていの場合、問題は解決します。

 ところが、彼女の場合、それが治る見込みのない病気です。
 取り除こうにも取り除けないのです。
 死ぬまでその病を抱えて生きていかねばなりません。

 彼女は病を恨みました。
 その過酷な運命を呪いました。

「よりによって、何で私がこんな目に遭わねばならないんだ…」、やり場のない怒りは家族や友人にも向けられました。

 そんな深い絶望の中、ある一人の友人の死(おそらく彼女と同じ病ではなかったかと思います)を通して彼女の「心の目」が開いていくのです。

それまで見えなかったもの…人々の優しさや命あることのありがたさといったもの…がはっきりと見え始めたのです。

 当たり前だと思っていたことが、実はそうではなく、まことにかけがえのないありがたいことだという事実に目覚め始めたのです。

「心の目」が次第に開いていった彼女は、「ねえ、病(きみ)!
仲良くやっていこう」と病を前向きに受け入れていこうとします。

そうして、「病(きみ)が見せてくれる私の決心(こころ)と、人の情(こころ)を捜してみたいなあ」と語っているように、この病が自分の人生になくてはならないものだったということを、これからの人生をかけて確認していこうと決意するのです。

 思えば、あれほど憎んだ病でしたが、その病が彼女の目覚めを促すかけがえのないご縁になっていたのです。

 そのことを思うとき、それは病だけではなく、私たちの人生に出遭うさまざまな障害は全て、目覚めを促す大事なご縁になるのです。

 ただ、私たちは自分の都合という「ものさし」で善悪、優劣、損得、敵味方、というように分け隔てをしますから、病は邪魔で敵で排除すべきものにしか見えないのです。

 しかし、ひとたび「心の目」が開けば、この世に無駄なものは何一つないことがわかります。

 あらゆるものに光があり、あらゆるものが等しく尊いことに気づかされるのです。

 一度きりしかない人生です。

 やり直しのきかない人生です。

 この人生を無駄にしないために、何よりもまず、「心の目」を開くことが大事なことだと思います。

「悟りの花は苦しみのタネの中から生まれる」と申しますが、思い通りにならない中にこそ、「心の目」が育てられるということを、作文の少女は私たちに教えているのです。


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