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「彼岸によせて」 H20.3
 「暑さ寒さも彼岸まで」 と言われますが、今年も春のお彼岸を迎える季節になりました。

 お彼岸は、春と秋の二季あり、春は春分の日、秋は秋分の日をはさんで、夫々前後一週間の間を「お彼岸」と言います。

 「彼岸」は仏教用語で「悟りの世界・安楽の世界」のことを言います。
 一方、私たちの住んでいる世界は彼岸に対してこちらの岸ですから「此岸」と言います。
 これは「迷いの世界・苦しみの世界」です。

 この彼岸と此岸の間には、煩悩の波が荒れ狂う果てしない海が横たわっています。

 その煩悩の波を乗り越えて、悟りの世界である彼岸に渡ろうというのが仏教の教えです。

 特に、春秋のこの時期は一年中で最も過ごしやすい時ですから、この季節に彼岸に渡る仏道修行にいそしみましょうということから「お彼岸」というものが設けられました。

 今風に言えば、お彼岸はさしずめ「仏教週間」と言えるでしょう。

 ところで、お釈迦さまはなぜ私たちに「彼岸に渡りなさい」と勧められたのでしょうか。
 そこには大事なことが二つあると思います。

 まずその一つは、彼岸という悟りの世界を知ることによって、私たちの世界が迷いの世界だと知ることが出来るということです。

 もし、彼岸を知ることがなかったら、私たちは自分が迷っているなどとは到底思いません。
 それどころか「私は正しい」と思っています。
 人間世界に争いごとが絶えないのは、この「私は正しい」という自己中心の見方しか出来ない心にあるのです。

 お釈迦さまは「迷っていながら迷っていることに気づかない。それが迷いだ」とおっしゃっていますが、まさにその通りです。

 彼岸は、そんな私たちの迷いの心をありのままに映し出す鏡になるのです。
 その鏡に映し出されることによって、愚かな我が身が知らされるのです。
 知れば「愚かな私でした」と素直に頭が下がります。
 ここが大事なのです。

 ひとたび頭が下がれば、あらゆるものがこの私を導き育ててくれるものだということに気付きます。
 順境も逆境も、敵も見方も、何もかもです。
 つまり私にとって、この世の中に無駄なものは何一つないということがわかるのです。
 まさに「我以外皆我諸仏」だったのです。

 このように、私たちは彼岸を知ることによって、自らの愚かさに頭が下がり、頭が下がることによって、迷いの中にいながら迷いを越えていくという人生が開かれていくのです。

 そうして、今一つ大事なことは何かと言いますと、それは「彼岸を目指す」ことによって、私の「いのち」の目的地がはっきりと定まるということです。

 よく人生は旅にたとえられますが、人生が旅であるならば当然目的地がはっきり決まっていなければなりません。

 例えば、旅行者に「どちらへ行かれるのですか?」と尋ねて「いやー、どこに行くのか分かりません」という人はまずいないと思います。
 もし、そんな人がいれば、それは旅ではなく放浪というものです。
 放浪はいつどこで泊まる宿があるのやら、いつどこで食事にありつけるのやらと不安と心配で、おちおち旅も続けられないと思います。

 目的地が定まって、初めて安心して旅が続けられるのです。

「彼岸を目指す」とはまさに私の「いのち」の旅の目的地が定まるということです。しかも、目的地が定まったというだけではありません。
 彼岸には阿弥陀さまが待っていてくださるのです。
 それは、死んだら終いと思っていたこの人生が、「永遠のいのち」を頂く人生に転じられていくのです。
 そのことをはっきりと確信できた時、本当に安心してこの人生を歩んでいくことが出来るようになるのです。

 お釈迦さまは「彼岸に渡れ」と私たちに勧められました。
 それは、「彼岸を知り、彼岸に生き、彼岸を目指す」という人生の如何に大切なことであるかを、私たちに教えて下さっているのです。

 「彼岸を知る」ことによって、何事も決して無駄にしないという智慧ある人生が開かれ、また、「彼岸を目指す」ことによって、我がいのちの目的地の定まった安らかな人生が開かれます。

 今年のお彼岸は、このようなことに思いをいたし、実りある「仏教週間」にしていきたいと思っています。


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