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 「同治と対治」 H20.5

 仏教に「同治」と「対治」という教えがあります。
 「治」は治療という意味です。

 これは、たとえば発熱に対して、氷で冷やして熱を下げようとするのが「対治」で、温かく汗を充分にかかせて熱を下げるのが「同治」です。

 或いは、悲しんでいる人に、「悲しんでばかりではダメじやないか。もっと元気を出せ」と悲しみから立ち直らせようとするのが「対治」で、「辛いだろうね。よく分かるよ」ととも に悲しみを分かち合い、相手の心の重荷を下ろしてあげるのが「同治」です。

 言ってみれば、「対治」は現状を否定するのに対して、「同治」は現状を肯定するところから出発した考え方です。

 そして、いろんな場面でどちらがよい結果をもたらすかと言えば、それは「同治」の方です。

 時には「元気を出せ。頑張れ。そんなことではダメだ」と激励したり叱咤すること(対治)も必要ではありますが、ともに悲しみを分かち合い、ともに涙する「同治」の方が治療法としては、はるかに優れているのです。

 ところで東井義雄先生の著書『いのちの教え』の中に次のようなお話があります。

 (中略)悟君という少年は小学校に入学して以来ずっと登校拒否が続いていました。
 担任の先生方が「我こそは、彼の登校拒否を解決して見せるぞ」と色々手を尽くし、「元気を出せ」と熱心に励ましたのですが、どうにもならないまま六年生を迎えることになりました。
 六年生の担任は、学校では一番若くて、また気の弱い一面を持った米田先生という方です。
 米田先生はそれまでの担任の先生のように悟君に「頑張れ、もっと元気を出せ」とは言いませんでした。
 どう言ったかというと、「悟君、実は先生も気の弱い男で、他の人が自分の思い通りにやってのけるのを見ると、うらやましくなってしまう。僕らは自分のことよりも、まず相手の気持ちを考えてしまう。が、考えてみると、これは、悪いことではなくて、人間として一番大切なことではないだろうか。悟君、お互いに、僕らのこの気の弱さ、もっと大切にし合おうではないか」と呼びかけたのです。
 米田先生の担任になってから、悟君の登校拒否はぴたりとやみました。
  以上のようなお話です。

 この米田先生の悟君への対応が「同治」です
 一方、それまでの担任の先生たちは「対治」だったのです。

 「対治」は、たとえそれが善意に満ちた励ましであっても「登校拒否はダメだ」という考えから出発していますので、その一点において、どうしても悟君と対立してしまうのです。
 ですから、熱心に励ませば励ますほど、それが悟君にはかえって大きな心の負担になっていたのです。
 ここで、阿弥陀さまのお心というものを考えてみたいと思います。
 阿弥陀さまには一切の否定がありません。
 無条件で私を救いとって下さいます。
 ありのままの私を受け入れて下さいます。
「お前は頭が悪いのか。良いじやないか」
「気が弱いのか。結構、結構」
「人生の落ちこぼれか。そんなことはとるに足らんことだ」
「目が見えないか。耳が聞こえないか。構わん構わん。そのままでいい。そのままでいい」と、絶対的な受け入れ、絶対的肯定、絶対的な許しこそが、阿弥陀さまの大悲と呼ばれるお心なのです。

「一人漏らさず救う」といわれる所以はここにあるのです。

 これが「同治」の完全なあり方です。

 ところがです。

 そんな大悲に包まれていながら現実の私はどうかというと、相も変らず煩悩にまみれた愚かな日暮を続けています。
 大悲に包まれてなお、愚痴が口をついて出るのです
 なんともお粗末な我が身です。

 しかし、しかしです。
 それでもなお、阿弥陀さまはそんな私をすべて受け入れ、すべて許し、「そのままでよい。
 そのままでよい。決して見捨てることはないからな」とおっしゃって下さいます。
 これが私にとって、この上もなく有り難いのです。
 我が身の愚かさに慚愧しながらも、深い深い安らぎの世界が開かれるのです。
 これは難度海(渡ることが出来ない)と呼ばれる人生を歩む私たちに計り知れない大きな
 支えになります。

 まさしく「畢竟依」です。最後のよりどころです。

  もし阿弥陀さまの大悲に、出遭わなければ、不安と焦燥の人生を送らなければならなかったことを思う時、ただただ、この大悲に「もったいないことです。かたじけないことです」
と頭が下がるばかりです。

 妙好人、善太郎さんはそんな阿弥陀さまの大悲に出遭った喜びを
 ありがたいこっちゃ
 もうしわけないこっちゃ
 はずかしいこっちゃ
 なんまんだぶ
 といわれたと聞きますが、まさにその通りであります。


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