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「真珠貝に学ぶ」 H21.9放送
天然の真珠は一体どのようにして誕生するのでしょうか。
ある書物に次のような説明がされていました。

真珠貝と呼ばれる貝(主にアコヤ貝)は普段、砂の中で生息しています。すると、海水と一緒に砂や泥を吸い込みます。そういう異物が入ると貝は嫌がって吐き出そうとします。
たいていの異物は吐き出せるのですが、時たま、尖った石のかけらなどが入ってくることがあるそうです。貝は痛いので懸命に吐き出そうとするのですが、どうしても吐き出せない時があるそうです。

そんな時は致し方ありません。貝はその異物を体の中に保つしかありません。

ところが、ここからが真珠貝の素晴らしいところなのです。

痛みに耐えながらも、異物によって内蔵を傷められないようにと、体から分泌物を出して、長い年月をかけてその異物を幾重にも幾重にも包み込み、そうして出来上がったのが、あの真珠の珠だそうです。
現在行われている真珠の養殖は、この真珠貝の習性を利用しているのです。

この説明を読んだ時、「私たちの人生もこれとよく似ているなぁ」と思いました。

私たちもこの真珠貝同様、毎日のように心の中に傷みが入ってきます。
たいていの痛みは吐き出すことが出来ますが、時にぐさりと胸に突き刺ささって、吐き出そうにも吐き出せない痛みに出遭うこともあります。

そんな時私たちはどうしたらいいのでしょうか。
その時は仕方ないのです。痛みに耐えながらじっと胸の中に包み込む以外、方法はありません。

けれども、その痛みに耐えながらも、真珠貝と同じように、その苦しみを尊い宝石の玉に仕上げる道がこの人生に唯一つ開かれています。

それがお念仏のみ教えなのです。
何故そのようなことができるのでしょうか?

それは何よりもまず「業」ということを明らかにして下さるからです。

「業」とは我が身に起こる出来事は、決して他から与えられたものではなく、すべて自分がまいたタネ(因・縁)なのだという仏教の人生観をあらわす言葉です。

自分でまいたタネですから、自分で刈り取る以外方法はありません。

これを仏教では「業報の世界」と教えています。

「私の人生は私の責任において果たしていく」ということです。

「そんなことは分りきったことだ」と言われるかもしれません。
ところが、私たちの人生には「こうするより他なかった」、「そうせざるを得なかった」ということがあるのです。それさえも自分が責任をとる、というのが仏教の人生観なのです。

どんな時にも人を恨まない、世を呪わない、そこに一人果たしていく厳しい道を「業」と言うのです。

「こうするより他に道がなかった」ところに「己の業の深さ」をかみしめていくのです。

そして大事なことは、そのような厳しい「業」を一人果たしていく者を見つめて、「それはあなたの業だ、仕方ない」と冷たく放っておけない方がいらっしゃるのです。
この世に涙していく者を見るにつけて「だからこそ捨ててはおけないんだよ」呼び続けておられる方がいらっしゃるのです。

そのお方を「阿弥陀如来(仏)」と申し上げる仏様なのです。

    如来の作願をたずぬれば  苦悩の有情を捨てずして
    回向を首としたまいて   大悲心をば成就せり

と、親鸞聖人は詠っておられます。
私のこの深い苦悩が、「必ず救うぞ」という阿弥陀さまの願い心を生んでくださったのだと、親鸞聖人は、その大悲心を喜びながら、この業報の人生をたくましく歩んでいかれたのです。

一人じゃなかったのです。
共に泣いてくださるお方がいらっしゃるのです
何もかも知り尽くしていたお方がいらっしゃったのです。

悲しみをご縁として、苦しみをご縁として、阿弥陀さまの大悲心に気づかせていただく時、「この苦しみは無駄ではなかったのだなぁ」ということに目覚めることが出来るのです。

否、それどころか、この苦しみがあったればこそ、阿弥陀さまの大悲心に出遭うことが出来たのだと、その苦しみさえも恵みとすら受け取っていく人生が開かれてくるのです。

我が身に降りかかる苦難を恵みと受け止めていく。

これほどたくましく尊い生き方はありません。そこに、お念仏の教えを頂く者の「深い安らぎの世界」があるのです。

吐き出そうにも吐き出せない深い痛みに出遭った時、それをただ「不幸な出来事」だけに終わらせないために、親鸞聖人がお示しくださったお念仏のみ教えを聞き開いていただきたいと思います。


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