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歌人・税所敦子(さいしょあつこ)  H23.10

幕末から明治にかけて活躍した女流歌人に税所敦子(さいしょ あつこ)さんという方がおられます。
彼女は、文政8年(1825年)京都の宮家付き武士(宮侍)の家に生まれ、幼い頃から歌に親しまれ、20歳で薩摩藩邸(京都)に勤める税所篤之(さいしょ あつゆき)氏と結婚されます。

短期で気性の激しい夫によく仕え、近所の人からは、「あんなに無理を言われて、よく我慢しておられますね」と言われたそうですが、そんな時決まって「武士の妻として、何かと足りないところの多い私を人並みの武士の妻にしてやろうとの思いから、言葉も荒くなったり、手も上げられるのでしょう。夫の憤りの強いのは私のことを思ってのことです。ですから夫のことは少しも怨んではおりません」と、答えたといいます。

こうして献身的に仕える敦子を、いつしか夫も心からを敬愛するようになるのですが、その幸せも長続きせず、彼女が28歳の時、夫は病で亡くなります。
しかし、悲しみにくれる間もなく、彼女は姑の世話をするため、一人娘(徳子)を連れて、夫の郷里である鹿児島に赴くのです。

鹿児島には姑のほか、篤之と前妻との間にできた2人の娘、さらには五人の子供を連れた弟夫婦が同居しているという大家族でした。
ことに姑は近所の人から「鬼婆」と、陰口されるほどの気性の荒い人で、敦子に対しては事毎に意地悪く当たるのです。
しかし彼女はそれをじっと辛抱するばかりか、「まだ自分のお世話が行き届かないからだ」、「自分に足りないところがあるからだ」と、自らに言い聞かせ、姑に仕えるのです。
酒好きな姑の食事は彼女自ら調理をし、また毎夜手洗いに行く姑のため、一夜も欠かさずローソクを持って案内するなど、心を尽くして、姑に仕えます。

当時の鹿児島は"よそ者"を嫌う気風が強いところでしたが、孝養を尽くす彼女の姿に人々は皆、これを賞賛して止みませんでした。

そんなある日のことです。
外出先でどうへそを曲げたのか、憮然とした面持ちで家に帰った姑は、彼女を呼び寄せ次のように言うのです。
「あんたは歌を作るのが上手だそうだな。今、この婆の前で一つ歌を作って見せてくれぬか」
「はい、いかような歌を作りますので」と、彼女は素直に応じました。
「それはな、この婆は、世間で鬼婆と言いますじゃ。それで、その鬼婆の意地の悪い所を正直に歌に読んでくだされ」
敦子は驚いて、「まぁ、とんでもない。」と言って、しばらく熟考した後、次のような歌を短冊にしたためるのです。

仏にもまさる心を知らずして
鬼婆ばりと人は言ふらん
 
短冊を手に取り、しばらく無言で見ていた姑は、ついに大粒の涙を流し、「今日まで意地悪のし通しじゃった。それほどまでにねじれきったこのわしに《仏にもまさる》とは……本当にすまなかった。許しておくれ」と手をついて心から謝まったそうです。

歌人である彼女は次のような歌を作り、いつも自らを厳しく律していました。

朝夕のつらきつとめはみ仏の
人になれよの恵みなりけり

いかなる苦労があろうとも、それは「本当の人間になってくれよ」と働きかけてくださるみ仏の「お恵み」ですという歌でありますが、いかなる苦難をも恵みと受け止めていくところに、長年仏法に親しんでこられた彼女の素晴らしい智慧が光っています。

その後、彼女の貞節ぶりが、薩摩藩主島津久光候の耳に入り、登用されて、その息女に仕えて10年、更に島津家から近衛家に嫁入られる際に伴われて近衛家に移って10年、よくその任を果たされます。

さらに明治8年、高崎正風の推挙によって、宮中に入り、明治天皇皇后両陛下のお世話係(掌侍)としてお仕えすることになるのです。 
両陛下のご信任ことのほか厚く、人々は彼女を明治の紫式部と讃えました。

また、宮内卿・伊藤博文公も、たびたび彼女と打ち合わせをする機会があったそうですが、「あれ程えらい婦人に会ったのは初めてだ」と、周りの人に話していたといわれています。

また宮中にあっては、外国要人の接待に不自由とのことで、50歳を過ぎてフランス語、英語を勉強され、短時日のうちに習得したとのことです。

こうして波乱多き人生を送られた税所敦子さんは明治32年2月、多くの人に惜しまれながら76年の生涯を閉じられました。

清楚で気品があり、文学の素養豊かにしてしかも謙虚である、まさに彼女こそ「千古の婦人の鑑」であります。


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